株式会社 高木組 建設に関わる話 1

建 設 に 関 わ る 話

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 1 沖ノ鳥島の話  2 建設に使われていた道具   3 エル・ニーニョの話   4 化石燃料の話

 5 ダイナマイトと花火の話  6 紅葉の話   7 伊能忠敬や間宮林蔵の話  8 地球の話

 9 小樽港と広井勇の話  10 夏至や冬至の話   11 幹細胞の話  12 魚のエサの話

13 水の話  14 台風の話   15 温泉の話  16 モダマの話   17 天気や前線の話

18 武田信玄や信玄堤の話   19 日本人の生い立ちの話   20 地球温暖化の話







1 沖ノ鳥島の話  当画面トップに戻る

○ 沖ノ鳥島とは

沖ノ鳥島位置図  沖ノ鳥島は、図にもある通り日本の最南端 (凡そ 東経136度 北緯20度)に位置する小島である。
 東京からは南へ1700Km程離れている。
 ちなみに、東端は南鳥島(凡そ 東経154度 北緯24度)で、西端は与那国島 (凡そ 東経123度 北緯24度)である。
 北端については、日本の主張と国際的認知にズレがあるため記述は控える。

 沖ノ鳥島は平均海面から1.0m突き出ている北露岩と 0.9m突き出ている東露岩とから成っている。
 しかし、干潮時には東西5Km、南北1.7Kmが海面上に姿を見せる。

 この北露岩と東露岩は、略最高高潮面(これ以上潮が上がることがないという水面の高さ) からは、それぞれ16cm6cmしか突き出ていない。
 しかし、この二つの岩はれっきとしたなのである。

 国際的な島の定義は「島とは、自然に形成された陸地であって、水に囲まれ、 最高潮位の時にも水面上にあるもの」となっていて、面積についての規定はない ため、この北露岩及び東露岩はれっきとしたであると 言えるのである。

○ 国土の保全のために

 北露岩及び東露岩は波に浸食され、その形はまるで太目のツクシ のようである。

 この辺りは台風銀座で、波浪が高くなることもしばしばである。
 その影響で露岩が折れてしまうことは十分考えられることであった。
 露岩が折れてしまうということは、「島」でなくなるということであり、日本の領土が 存在しなくなるということである。

 日本政府は、200カイリ経済水域が失われることを避けるために、 露岩を守るための大規模な工事をした。

工事概略説明図  工事の内容について、左図を参考として概略的に記述すると、まず、北露岩及び東露岩の周りに、 約9900個の鉄製消波ブロックが設置された。
 次に、設置された消波ブロックの内側に、露岩の頭だけを残し、 特殊コンクリートを注ぎ込んだ。

 水深が浅いため、大型作業船が近づけなく、近くに作業基地を設置、ここで製造されたコンクリート を小型台船で仮設作業台まで運搬、ここから露岩の周りに特殊コンクリートを注ぎ込んだ

 工事は、上図の内容の他にも色々行われているが、その記述については、 割愛する。

 工事は、準備期間を含め3年間にわたって行われ、平成元年末に全作業を終了した。
 工事費は約285億円であった。


2 建設に使われていた道具  当画面トップに戻る

○ ツルハシ(片口)

ツルハシ(片口)  「柴田退治記」という文献によると、最初の登場は豊臣秀吉の時代(1583年)で、 左図のような図も載っている。

 築城技術、鉱山技術の進展に伴い、考案されたものと思われ、重量は重くても3.7Kg 以内であったとされている。

 明治22年発行の「兵庫県農具図解」にも同様の図が収録されており、 同書には鍬(くわ)の図も収録されている。

○ 西洋ツルハシ(両刃)

 英国人モレルによる日本で初めての鉄道建設現場である、新橋、横浜間の現場関係文献に、 「ビーター」という名で登場している。

 鉄道の軌条の高低を整正し、道床を搗(つ)き固めるのに使用したとされている。
 枕木の間が狭くて「ビーター」を使えないときは、「タンピングバー」 (テコのことか)を使ったという記述がある。

 この「ビーター」は、鉄道創業以来輸入品が使われ、重量も5Kg以上あった。 その後改良が計られ、昭和5年に重量も4Kg以下という「国産ビーター」が出現した。

 この頃から、一般土木工事にも軟岩の切り取り等に使われるようになった。

○ 鍬(くわ)

鍬(くわ)  古くから用水路浚渫工事等で 掘り下げや積み込みに使われた。

○ 鋤簾(じょれん)

鋤簾(じょれん)  「農具便利論」(1822年発行)に登場している。
 主に用水路浚渫の積み込みに使われた。

○ 鋤(すき)

鋤(すき)  「農具便利論」(1822年発行)に紹介されている。
 主に粘性土の掘削、積み込みに使用された。

○ モッコ

モッコ  現在でも色々な用途で使用されているが、 登場は江戸時代中期といわれている。
 「モッコ」に荷を入れ棒を利用し2人で運ぶ時は、力の弱い者が先に立ち、力の強い者は後についた。

 荷は図にある通り少し後方部に吊るすようにした。こうすることにより、 荷は後方に多くかかるようになり、力の弱い者の負担が減ることになる。

 人の下働きとして使われる状態を「お先棒を担ぐ」 というが、それはこの状態を表現したのが起源といわれている。

○ スコップ(オランダ語) ショベル(英語)

 明治に入って登場している。
 幕末に、長崎鉄工所建設に携わったオランダ人技師が持ち込んだといわれている。

 鍬(くわ)と鋤(すき)の両用を兼ねた道具である。

 明治16年、札幌市豊平川改修工事が内務省の直営で行われた時、この工事のために「ショベル」 15挺が北海道炭鉱会社から借用されている。
 「ショベル」は輸入品で貴重であった。

 本格的「国産ショベル」の生産を行ったのは、明治28年創業の播州三木町(現兵庫県三木市)にあった 「地球ライオンショベル会社」であった。


3 エル・ニーニョの話  当画面トップに戻る

○ はじめに

 建設業は、お客様から依頼された構築物を築造する時、屋外でという場合がほとんどである。
 ゆえに、天候によりその進捗に影響を受けることは多々ある。
 エル・ニーニョが発生すると、異常気象により例年にないパターンが現れ、現場を管理する者にとっては、 又一つ管理項目が増えるというような状況となる。

○ エル・ニーニョとは

エル・ニーニョ説明概略図  エル・ニーニョとは、図のように、東太平洋の冷水舌と呼ばれる冷水域勢力が弱まり、 東西の海水温度差が小さくなると共に、広い海域で海面水温が1〜3度C程上昇 する状態を言っている。

 通常4年に一度ぐらいの割合で発生するが、2年に一度の時もあり、10年に一度の時もある。
 ちなみに、エル・ニーニョとは、スペイン語で「神の子」という意味である。

 冷水舌発生のメカニズムは下記である。

 西向きの貿易風により、暖かい上層の海水が西方に押し付けられる。
 それにより、西太平洋熱帯域では暖水の層が厚くなり、東方では薄くなる。
 ゆえに、東方では赤道湧昇の影響がもろに現れ、海面水温が下がり、 西方ではその影響が弱いため海面水温はそれ程下がらない状況が現出する。

 上記により冷水舌が形成される。

○ エル・ニーニョ発生の原因

 エル・ニーニョの発生は、西貿易風が弱まり、そのために、西太平洋熱帯域に蓄積された暖水が、 東太平洋に逆流することにより起こる。

 西太平洋熱帯域は、世界中の海洋で最も海面水温の高い海域で、対流活動が活発な、いわば世界中の 大気の加熱の中心となっている。
 したがって、西太平洋熱帯域では、上昇気流が強く、この上昇気流を補うために、 海面水温の低い東から大気が流れ込むということが起こる。

 これが貿易風成因の一つである。
 つまり、貿易風は西太平洋熱帯域の海面水温を維持する役目を果たしているとも言えるし、 又その状況が維持されているために吹くことが出来るとも言える。

 何らかの原因で、対流活動の中心が東に移動すれば、対流の西側では、風の方向が逆転したり、西向きの 風が弱まると思われる。
 これにより、暖水塊は支えを失って東に移動し、次いで海面水温の高い海域も東に 移動することになる。

○ エル・ニーニョによる異常気象

 エル・ニーニョの発生により、最も直接的な影響を受けるのは、太平洋の熱帯域の周辺である。
 地球全体の大気循環のとなっている西太平洋熱帯域の対流活動の変動なので、 世界各地に異常が起きても不思議ではない。
 例えば、オーストラリア北部やインドネシアでは干ばつとなり、ペルーでは雨が増え、洪水が多発する。
 日本では、暖冬や冷夏の他に接近する台風の数が減る傾向がある。


4 化石燃料の話  当画面トップに戻る

○ はじめに

 建設業にとって建設機械、例えば、最も一般的なバックホウを初めとする諸機械との関わりは、切っても、切っても、 切り離せない関係にある。
 現在は、その諸機械の燃料は化石燃料(石油、ガス、石炭等)が主に利用されている。

○ 有機成因説による石油やガスの出来るまで

 太古の生物が成因であるとする有機成因説と、生物には関係なく自然に起きた化学反応により生まれたとする 無機成因説の2説がある。
 現在は、有機成因説が極めて有力になっている。

 有機成因説とは下記である。

石油やガスの出来るまで

 参考として左図を添付している。

 太古の昔、主に海や湖にいたバクテリアやプランクトンや一部の植物などが、 地下深くに埋もれてケロジェンという高分子化合物に変わった。
 それが更に地下で長い時間をかけて熱分解され、さまざまな炭化水素、つまり石油やガスが生成された。

 大半のものは中世代(約2億2千万年から6千5百万年前) の地層から見つかっている。

 石油やガスが生成されて集まるためには、そこが砂や泥などが厚く積もった 堆積盆地であること、そしてそこでケロジェンを多く含む根源岩や、 油をためるのに適した浸透性の良い貯留岩という岩石が作られること、更にそこが貯留岩を不浸透性の岩石が 覆って石油を逃がさないトラップと言われる地層の形になっていることが うまく組み合わされる必要がある。

 石油やガスは、このような条件の揃う場所に偏って集まっている。


5 ダイナマイトと花火の話  当画面トップに戻る

○ ダイナマイトと花火の関係

 ダイナマイトと花火は同じ火薬類で親戚の関係にある。
 建設業がダイナマイトと関わる時は、硬い岩山等を切り崩す時やトンネルを築造する時などである。
 その時は、すさまじい勢いで燃焼が起こり、結果として、高圧ガスが発生する という現象を利用している。
 その高圧ガスが、岩等の組織を破壊するのである。

 火薬類は、その燃焼スピード等の状態により、爆薬、火薬、火工品に分類されている。
 ダイナマイト等のように上記の如くの現象を生じしめる火薬類を爆薬といっている。
 花火は、煙火とも言われ、火薬類を使用して、光や音を生じしめ、観賞の用等に供したもので、 火工品の一種である。

○ 花火の話

 日本の人々は何時頃から花火を楽しんでいたのかと考え、調べてみると、江戸時代(1614年)には 線香花火が売られていたとあった。
 やはり江戸時代(1659年)には、あの「たまや、かぎや」の掛け声で有名な「鍵屋」が花火を打ち上げている。
 ひるがえって、現在の日本では、年間大小3万箇所で花火大会が催され、 我々の心を和ませてくれている。

 さて、花火は、大きく分けると2種類あり、打ち上げ花火仕掛花火である。
 打ち上げ花火は、打ち上げ筒で大空へ打ち上げ、上空で破裂させ、 大輪の花を咲かせたりするものである。
 仕掛花火は、ナイアガラの滝などのように、横に広がりのある花火で、 枠組みを作って花火を仕掛け、文字や絵を浮き上がらせるものである。
 最近では、スケールの大きいものも現れ、幅が 1Kmに及ぶものもある。
 スターマインは仕掛花火の一種である。

○ 打ち上げ花火について

花火  打ち上げ花火は大きく分けて、球形に開く「割物」と、花火玉が上空で二つに開き、 中から星などが放出される「ポカ物」の2種類がある。

 「割物」には、火の花が開き、中心から星が尾を引いて広がってゆく「菊」、 小さな菊が同時に多数咲く「千輪」、尾は引かず、最初から色付きの炎を出して丸く開く 「牡丹」がある。
 その他、たくさんの星が尾を引いて垂れ下がるのが「柳」、尾を引かず 星が流れるのが「しぐれ」、太い花弁がヤシの風情を持つ 「椰子」がある。

 「ポカ物」には、放出された種が何度か開く「段咲物」、細工物や星が しばらく遊泳する「吊り物」、花火が開いた上に小さな花が咲く 「浮模様」などがある。

 花火は、打ち上げられてから消えるまでに、メリハリがあるのが良いとされている。
 打ち上げられ、きちんと頂点で開くことを「座り」が良いと言い、 正確な円を描く条件となる。
 玉が割れ、星が放射状に飛び散り作る球形を「盆」と言い、 完全な球形となった時「盆」が良いと言う。
 又、飛び散った全ての星が吹き消すように消えることを「消え口」と言い、 それが上手くいった時「消え口」が良いと言う。

 「座り」、「盆」、「消え口」がスムースに移り流れた時、 見る人はその花火に感動し、潔さを感じ、 鮮明な印象を持つこととなる。

 この「打ち上げ花火について」の内容は、 北海道新聞2001年7月28日付け朝刊より引用させて頂きました。


6 紅葉の話  当画面トップに戻る

○ はじめに

 特に土木工事の場合、我々建設業は、色々な場所で、その施工に携わっている。
 市街地の時、海岸沿いの時、川沿いの時、畑地の時、丘陵地の時、山地の時等、様々な場所で 工事を施工している。
 その中の、山地での施工に携わっていて、時期的に丁度その季節に遭遇した時は、一時の安らぎを感じるものと 出会えることが出来る。
 そう、紅葉との出会いである。
 下記の如くの情景を見ることができることがある。

美しい情景


○ 紅葉前線と紅葉や黄葉する仕組み

紅葉、黄葉  紅葉前線は、桜前線とは逆に、北から順に南下する。
 紅葉は、10月初旬に北海道の大雪山周辺から始まり、約2ヶ月をかけ順に南へ移動する。
 知り得た情報によると、イチョウのような黄葉は、種子島で11月下旬に、カエデのような紅葉は、 鹿児島で12月初旬に、その彩りを花開かせるらしい。

 さて、カエデなどは何故赤くなり、イチョウなどは 何故黄色くなるのだろうか。

 秋風が吹き始めると、木々たちは冬を乗り切るための準備を始める。
 具体的には、葉と枝の間に「離層」と呼ばれる層を作り、 寒くなって、根の働きが弱くなることにより起こる水分不足に、対応しようとする。
 その層ができることにより、葉と枝の間での水や養分の流れが妨げられ、結果として、葉への水分補給が阻害され ることとなり、木自体が、水分不足から起こる自身の乾燥から自らを守る、ということをするのである。

 この「離層」が形成された後、カエデなどの葉に残った養分は、水の供給が断たれることにより、 「アントシアニン」という赤い色素に変化すると共に、葉緑素は分解されて、 緑の色素は減少し、葉は赤く色づいてゆく。

 又、イチョウなどの葉の場合は、同様に、葉緑素が分解され、緑の色素が減少してゆく過程で、もともと葉に存在していた 「カロチノイド」という黄色の色素が目立つようになり、 やがて黄葉へと変化してゆくのである。

○ 紅葉や黄葉が美しくなる条件

(1)昼はカラッと晴れる。(直射日光が強い)
(2)大気の乾燥による地中水分の減少
(3)夜間の急激な冷え込み

 上記の(1)〜(3)の条件が揃うことにより、離層の形成、養分の蓄積、葉緑素の分解などが 強力に促進され、鮮やかな色づきが生まれることとなる。

 この紅葉の話の内容の一部は、ハヤシダハジメ氏運営ホームページ(カエデともみじ) より引用させて頂きました。
 同じく、この紅葉の話で使用した2セットの写真も利用させて頂きました。
 ありがとうございました。


7 伊能忠敬や間宮林蔵の話  当画面トップに戻る

○ はじめに

 我々建設業は、建物等の位置の設定、土地等の高低の確認、山地の斜面の切り取り等を行う時に、 測量機械を利用する。
 現在の測量機械は、光やレーザーを利用するなどして、ある程度正確な作業を比較的簡単に行うことが可能である。
 しかし、満足な測量機械がなかった江戸時代末期に、日本の色々な地域で測量作業を行った 伊能忠敬や間宮林蔵のことを考えると、「驚嘆する」という言葉以外に言葉は出てこない。
 そんな二人についての記述を以下に記す。

○ 伊能忠敬について

伊能忠敬  伊能忠敬は、自らの実測による日本地図を初めて作った人として有名である。
 忠敬は、1745年上総国山辺郡小関村(現千葉県九十九里町)に生まれた。
 6歳で母と死別し、17歳で下総国佐原村の名主、伊能家の婿養子となった。
 その後、佐原村の凶作時には窮民を助けたり、牛頭天王祭で起こった紛争を解決したりした。
 又、忠敬35歳の時(1780年)、後述する間宮林蔵が生まれている。
 更にその後、利根川洪水に端を発した利根川堤防修理に活躍するなど、働き詰めに働いて総財産3万両を築き上げた。
 49歳で隠居し、家督を長男に譲り、50歳の時江戸深川黒江町に移り住み、 幕府天文方である高橋至時の弟子となった。

 忠敬は、長年の夢として、地球の南北を結ぶ子午線を測り、地球の大きさを割り出し、 それをもとに地図を作りたいと思っていたらしい。
 では、子午線はどのようにして測ろうとしたのだろうか。

 下記の(1)〜(7)の手順で行ったのではないかと思われる。

(1)ある2点を南北間に設定する。
(2)その2点間の距離を正確に測量する。
(3)その2点の北極星に対する仰角を正確に測量する。
(4)測量された仰角の差を計算する。
(5)計算された仰角の差で求めてある2点間の距離を割る。
(6)その答えが緯度1度の距離である。
(7)緯度1度の距離を360倍すれば子午線の距離であり、
  地球の円周である。


 当時の測量道具は、仰角や水平角を測る角度器と巻尺の用をなす 間縄といわれるものが主体であるが、最も大事な距離の測量に間縄はあまり使われなかった ようである。
 使い方により伸縮の影響がかなり出て、あまり正確ではなかったらしい。
 距離の測量は、もっぱら、常に2歩で1間(約1.8m)となるように歩く訓練をしておき、 その歩数により距離の値を求めていたらしい。
 ある資料によると、その歩く訓練のエピソードとして、江戸深川黒江町界隈で熱心に歩測 を繰り返す忠敬の奇妙な姿が人目を引いたと記録にあるらしい。

 師である高橋至時の後ろ盾もあり、55歳の時から各地の測量を始めた。
 まず第1次測量として55歳の時、6ヶ月ほどをかけ奥州街道、蝦夷地を測量した。
 ついで、56歳の時、第2次測量として、伊豆、陸奥東海岸、奥州街道を測量した。
 又、57歳の時、これまでのデータをもとに、緯度1度の長さを28.2里と算出 すると共に、第3次測量として、出羽街道、越後街道などを測量した。
 以後、71歳まで、17年間にわたり日本各地の測量を続けた。

○ 「大日本沿海輿地全図」について

 忠敬は、17年間の測量作業の節目節目で、地図を作成しているが、71歳から72歳にかけ、 これまでの測量成果を集大成し、とりまとめるべく、「大日本沿海輿地全図」の作成に着手するものの、 体力の衰えがとみに現れ、翌73歳の時(1818年)永遠の眠りにつく。
 その後、「大日本沿海輿地全図」は関係者の手で完成された。
 忠敬が、測量をし、作成した地図は「伊能図」と総称されている。
 その正確さは見るべきものがあり、下記のエピソードがある。

 1861年、英国艦隊が来日し沿海を測量した際、幕府役人が持つ「伊能小図」を見て、 その正確さに驚き、幕府と交渉して同図を譲り受け、測量は止めてそのまま帰国した、というものである。

 「大日本沿海輿地全図」は、「大図」「中図」「小図」で1セットとなっており、「大図」とは縮尺が1/36,000のもので、 全214枚で全国をカバーしている。
 「中図」とは、縮尺が1/216,000のもので、全8枚で全国をカバーしている。
 「小図」とは、縮尺が1/432,000のもので、全3枚で全国をカバーしている。

○ 間宮林蔵について

太陽系惑星軌道図  間宮林蔵は、カラフトが半島ではなく島であることを確認し、間宮海峡を発見した人として 有名である。
 又、林蔵の色々な業績がたたえられ、火星と木星の間にある小惑星の一つに、間宮林蔵の名前が付けられ、 Mamiyaと命名され、公表されている。

 間宮林蔵は、1780年常陸国筑波郡上平柳村(現在の茨城県筑波郡伊奈町上平柳)の農家に生まれた。
 一人っ子として生まれた林蔵は、両親の愛情を一身に受けて育ち、幼い頃から神童 と呼ばれていたようで、下記のようなエピソードがある。

 15歳の頃、幕府の役人が地元の人々と協力して、小貝川をせき止め田に水を引く工事をしていた時、 その工事がなかなかうまく進まないのを見ていた林蔵が、ある方法を提案し、その方法がうまくゆき、 才能を幕府役人に認められた、というものである。

 幕府役人に認められ江戸に出府した林蔵は、日本各地で行われた治水工事や新田開発工事に携わり、 その中で、測量や土木工事を勉強したようである。

 19歳の時、林蔵は、北海道に渡り、主に測量の仕事をしていたが、20歳の時、函館で 伊能忠敬と出会い、師弟の約束を交わしたといわれている。

 以後、林蔵は、42歳までの23年間、カラフト探検、間宮海峡の発見、 蝦夷地の測量等を行い、北海道を中心として活躍した。

 移動手段が貧弱で、北方に関する知識も皆無というその当時、林蔵のカラフト探検等は 命がけの仕事であったと思われる。
 以下北海道での主な足跡を下記に記す。

 23歳の時、東蝦夷地、南千島を測量する。
 25歳の時、北海道日高に勤務する。
 26歳の時、エトロフ島に渡り、沿海実測、新道開発に当たる。
 27歳の時、エトロフ島会所が、ロシア軍艦に襲われ、退去する。
 28歳から29歳にかけ、カラフト探検を行い、間宮海峡を発見すると共に、 大陸にも渡り、清国役人と会見する。
 30歳の時、「北蝦夷島地図」を作成する。
 31歳の時、伊能忠敬から緯度測定法を学ぶ。
 32歳から42歳にかけ、伊能忠敬ができなかった蝦夷地の残り(根室〜知床〜稚内〜松前にかけての海岸) の測量を続け、その完了と共に江戸に帰る。
 この林蔵の蝦夷地測量結果が基となり、伊能忠敬の「大日本沿海輿地全図」の北海道部分が出来上がった。

 林蔵は、伊能忠敬から測量技法を学ぶと共に、高価な測量器具をわずかな金額で譲り受けていたようである。
 上記や忠敬が林蔵に宛てた書簡などからは、二人の師弟を超えた深いつながりを 感じ取ることができる。

 江戸に戻った林蔵は、その後、全国を歩き回り、異国船渡来の風聞内偵等の仕事をした。
 晩年には、水戸家にも出入りし、カラフトや外国のことを伝えた。
 その後、64歳の時(1844年)江戸の自宅で病死した。

 後年、ロシアと日本が1854年に結んだ「日露和親条約」締結時には、 林蔵によるカラフトから大陸にかけての地図やそれに伴う情報が、日本側が交渉を有利に進めた材料となった、 といわれている。

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